工務の溝上です。今日は霧島市が市民に配布する広報きりしま3月号の
中に「天降川の姿」が掲載されていたので少し紹介します。
天降川(あもりがわ)ってどこの川?知らない人も多いと思うのですが
ご存じでしょうか?知らない人は探してみてください。
(青色が昔の天降川です。左が現在の川筋です。)
天降川が現在のような川筋に変わって350年経つそうです。
昔は暴れ川で、川筋直しの治水事業が行われ現在の形になっているなど
まったく知らないことでした。薩摩藩の治水事業は優れていたとの認識は
あったのですが、この国分平野でも行われていたことに驚いています。
薩摩藩の石高は加賀百二万石に次ぐ第二の七十七万石の大藩でしたが実
際は慢性的な財政赤字に苦しんでいました。なぜかというと①武士の割合が
約25%と多い、他藩は5%ほど。②石高の七十七万石はもみ高であり、玄米
高では三十六万石程度であった。他藩は玄米高。③幕府が実施する事業の負
担金は一万石あたりとなっており、薩摩は七十七万石分であった。
④参勤交代で多額の資金を要した。⑤・⑥と続くのですが、このような
苦しい財政状況の中、この川筋直しによって約四百町歩の水田ができ、新た
に五千石の米がとれるようになったことは、薩摩藩にとっては非常に重要な
ことであったと思われます。
まだ続くのですが、その昔、国分平野を斜めに分断するように流れていた
暴れ川「天降川」を現在の形に治水工事をした薩摩の先人に思いを馳せ郷土
の歴史も少しは学んでいこうかなと思います。
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